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2016.11.09 [更新/お知らせ]
「映画は作った段階では何者でもない赤ちゃんのようなもの。しかも、今回は超高齢出産です。」特別上映『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』-11/1(火):Q&A

笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ

©2016 TIFF

 
11/1(火)、特別上映『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』の上映後、河邑厚徳さん(監督)、笹本恒子さん(出演)をお迎えし、Q&Aが行われました。⇒作品詳細
 
河邑厚徳監督(以下、監督):初めてのこの映画の上映が、この機会で、この場所で、皆さんに観ていただけたことがとても幸せです。ようやくここからなにかが始まるのだなという気持ちで、緊張感と期待でいっぱいです。ありがとうございます。
 
笹本恒子さん(以下、笹本さん):思いがけないことになりまして、どうしてよいのかわかりません。ドキドキしております。このような場所で皆様とお目にかかれて、また立派なフィルムに収めていただけたこと、本当に100歳まで生きてきて幸せだと思いました。今102歳になってしまいました。まだ生きているかもしれませんけど、どうぞよろしくお願いします。
 
司会:こうして一般公開に先駆けて、たくさんの方にご覧いただいたのですが、監督、いかがでしょうか?
 
監督:実は私、還暦を過ぎてから映画を作るようになりました。最初の映画が料理研究家・辰巳芳子さんの『天のしずく』という映画だったのですが、映画ができた朝に辰巳さんが「河邑監督!私達の赤ちゃんができたわね」とおっしゃったんです。それがすごく印象に残っていまして、実は映画というのは作った段階では何者でもない、映画というものは観客の方と育てていくものだと。そのことと今日を比較して考えますと、今回は超高齢出産だなと(笑)。夫が101歳、妻が102歳という、すごい赤ちゃんが誕生しちゃったという。これは本当に私からしたら宝物のような赤ちゃん、作品なので、どうやって健やかで無事で、そして赤ちゃんの持っている可能性を多くの人に広げていくことができるのかなと思っています。責任感も感じるし、わくわくする気持ちもあります。その最初の誕生に皆さんが立ち合ってくださったわけですから、新生児を抱きしめるようにして、今後もこの映画をいろいろなところでお話ししていただき、すくすく育つようにお力添えいただければと思います。ぜひよろしくお願いいたします。
 
司会:笹本さんに本日お越しいただきましたが、とても若々しいので、102歳ということが信じられないです。撮影中の印象的なエピソードがありましたら、お話いただけますでしょうか。
 
監督:僕は実はNHKで40年間ドキュメンタリーを撮ってきて、世界中のいろんな人達を取材して作品にしたのですが、その物差しからしても、笹本恒子さんという人は一体何者なのかと、会う度に分からないというか、はみ出してくる。新しい素顔がたくさん生まれてくる。本当に102歳まで生きた人というすごさ、これは私にとってもまだまだこれから学ぶべきことだと思って、笹本さんを師としてついていきたいと思っております。
 
司会:もう一人の主役のむのさんは、今年の8月にたくさんの方に惜しまれながらご逝去されましたが、むのさんの撮影中の思い出も教えていただければと思います。
 
監督:やはり、むのたけじさんという方は一種の伝説のジャーナリストで。私も映像でモノを作る仕事をしてきたので、ある意味で憧れの方だったんです。ところが、生きてこられた仕事の重み、経験、実績に関わらず、会うとめちゃくちゃチャーミングなんですよね。愛嬌があるというか可愛らしいというか、本当に素敵な方でした。まったく権威とか偉ぶったところもないし、いつもニコニコと笑いながら、ズバリ本当に大事なことを話してくれました。日本の民族を過ちがないように未来へ導いてくれる先達のような、貴重な方だったと思います。お目にかかって最後の数年間を映像で記録できたということが無上の喜びでした。
 
司会:笹本さんからご覧になって、むのさんはどんな方ですか。
 
笹本さん:戦争中からお名前はよく存じ上げていました。そして、日本にこんな方がいらっしゃるんだなと尊敬申し上げておりました。戦争が終わった途端に、ご家庭があるのにパッとお勤め先を辞めて、故郷にお帰りになって新聞をご自分で出されたという、ますます立派な方だと思いましたね。私もいつもお目にかかりたいと思っておりました。ただ、私はフリーランスで、どこにも所属せず仕事をしておりますので、偉い方にお目にかかるには紹介がないと伺えないでいました。しかし、運良く私の展覧会においでくださいまして、よくお話ししてくださるお元気の良さにびっくりしました。本当に心から、今でも尊敬申し上げている方でございます。
 
司会:笹本さんは日本初の女性の報道写真家ということで、75年もの間ご活躍されていますけど、この映画では撮られる側です。そのことについての感想や、この映画が出来上がった時の感想を教えていただけますでしょうか。
 
笹本さん:まず第一に、もう少し美人だったら、お撮りになる方も面白くとれたのではないかと申し訳なく思います。途中で足の骨、大腿骨を折ってしまったので、車いすに乗ってということになってしまいましたから、大変申し訳ございませんでした。
 
司会:笹本さんは先日、写真界のアカデミー賞といわれているアメリカのルーシー賞を受賞されました。誠におめでとうございます。
来年には日本写真家協会より笹本恒子賞というのが創設されると伺っております。まだ女性の社会進出が一般的でない時代から、今日に至るまでいろんな苦労があったかと思いますが、笹本さんを動かしてきた原動力はどういったところにあるのか教えていただけますか?

 
笹本さん:自分のことを申しますのはお恥ずかしいのですが、ある意味では欲張りだったと思いますね。私は小学校時代から本当に絵が好きで画家になろうと思っていました。大きくなってきてから兄たちから「女の画家では食べていけないぞ」と聞きまして、すぐに絵の研究所に通いながら洋裁の勉強をしました。そして洋裁でなんとか生きていけるようになりました。
絵は毎日新聞さんでカットを描かせていただいたのが始まりでした。カットを描いているうちに日中戦争が始まり、そこから帰ってこられた林謙一さんという方が内閣情報部から予算をいただいて写真協会をお創りなったので、そこでやってみないかと(当時の)社会部長から言われたのです。林さんは元毎日新聞の方です。
そして写真協会に伺って、たくさんの報道写真を生まれて初めて見せていただきました。新聞などで見る写真はせいぜいキャビネくらいの大きさでしたけども、そこにあるのは六つ切りの、世界や日本の偉い方が写っている写真で「これが報道写真ですよ」と言われました。
日本では女性の報道写真家というのは全然いませんでした。アメリカでは何人もいらっしゃいますけど。特に「マーガレット・バーク=ホワイトさんは『LIFE』の表紙まで写していますよ」とおっしゃったんです。「どうですか?報道写真家になりませんか」と林謙一さんに勧められました。女性でも「LIFE」の表紙まで撮っている方がいらっしゃると聞いて、カメラなんて触ったことがないけれど、ちょっとやってみようかなと思って、その道に入りました。
最初は「露出って何でしょう」とか、いちいち聞きながらやっていました。そして、いろいろなことがございまして、今まで生きてまいりました。どうも皆さんありがとうございました。
 
監督:今日、ぜひ皆さんの前でお話を伺いたい方が、この席にいらっしゃいます。映画の中でもずっとむのたけじさんを支えられてきた武野大策さん。むのたけじさんの息子さんなのですが、実はこの映画を大策さんにはまだ見せてなかったんです。事前に見せて「これは違うよ」とかいろいろ言われたくなかったので…(笑)。今日観ていただいたので、びくびくしながらですが、ぜひこちらへ降りてきてくださいますか。
 
司会:どうぞおかけください。ここからはお客様からの質問をお受けしたいと思います。
 
Q:笹本さん自身が感銘を受けて、人生の糧にしたような方がいらっしゃいましたら、その方のご紹介と、どんなところが笹本さんの人生に影響をもたらしたのかお聞かせください。
 
司会:笹本さん、感銘を受けた方、人生を変えられた方が被写体のなかでいらっしゃいましたか。
 
笹本さん:ほとんどの方が魅力的な方でした。なぜかと申しますと、私は明治の女性をどうしても写しておきたいと思いましたので。とにかく日本の国というのは、昔は男女の差がとてもございまして、男性は選挙権を持っていました。でも女性はそういうことができない、男性のためにご飯を炊いたりお洗濯をしているその合間に、一生懸命絵を描いたり文を書いたりいろんなことをしていらして、日本の国が戦後にやっと男女平等になった時に、もうすでに一流の地位にいらした。これは大変な努力です。
男性は浮気をしても許される時代だったそうです。女性は姦通罪というものがあったそうです。それほどひどい差別を受けていたその合間に、赤ちゃんを背中に背負って、お洗濯をしながらその合間に文を書いたり絵を描いたりしていた女性をどうにか残しておきたいと思い、明治生まれの女性を50人近く、もっともっとですね、取材させていただきました。
今の女性とはだいぶ世の中からの認められ方が違いますから、そういうことを是非したいと思い、取材させていただきました。特に偉いなあと申し上げたい魅力的な方がいらっしゃいましたけど、ひいきになりますので個人名はやめておきましょう。どうもありがとうございました。
 
Q:失礼な質問になるかもしれませんが、本当だったらむのさんも生きていて、笹本さんもお怪我することもなくピンピンしてお元気でしたら、おそらく企画当初の構想や『笑う101歳』というタイトルそのままだったのではないかと思います。しかしすごく残念ですが、むのさんはこの夏に亡くなられてしまいました。最初の映画の構想がどういうものだったのかということと、こうしたアクシデントの中で何か伝えたいメッセージが変わったか、あるいは変わらなかったのか、お聞かせいただけますか?
 
監督:今のはすごく重要な質問なのですが、現代の日本の社会で最大のテーマというのは「いかに死ぬか」ということ、「終活」といいますね。どうやって死ぬかというのが最大の課題になってきたと思います。僕自身がやってきた仕事の中で、結構宗教的なテーマもあったんですが、特に仏教の中に「人は泣きながら生まれる、しかし、死ぬときは笑いながら死にたいものだ」という言葉があるんです。僕は『笑う101歳』の中でそのことを考えたんです。これについては、大策さんにむのさんの最後の日々を是非伺いたくて。むのさんは笑いながら亡くなられたのでしょうか。
 
武野大策さん(以下、武野さん):最終的に父は本当に笑いながら死んでいったんです。というのは、8月20日の日の夕方から症状が悪くなってきたんですが、それでちょっと呼吸が厳しくなりまして、痰がからんでいるのを取ってあげたんですね。そしたら「ありがとう」という感じでにこって笑って、私の手を軽く握って亡くなったんです。本人は微笑みながら死にたいということをずっと言っていました。まさにそれが実現したということです。
それともうひとつ、私は『笑う101歳』というタイトルが少し意外だったのですが、100歳を超えてから、2人とも本当によく笑っていました。100歳になってなんとなく沈んでいるというようなことではなく、歳をとったときに笑うというか、楽しいんだよという意味合いを持たせたいんだという、今の暗い日本の世の中をちょっとでも明るくしたいという監督の意図があったのではないかなと、私は思っています。
 
監督:武野大策さんから、映画の感想をまだ聞いてないので、最後に一言お願いします。
 
武野さん:父は亡くなったのですが、この映画を観て、父がまた生まれたという印象を持ちました。今の社会に対して、非常にメッセージ性の強いお話をまとめていただいてとても感謝しています。ありがとうございました。

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