11/1(火)、ワールドフォーカス『鳥類学者』の上映後、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督、ジョアン・ルイ・ゲーラ・デ・マタさん(脚本・プロダクション・デザイナー)をお迎えし、Q&A が行われました。⇒作品詳細
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督(以下、監督):こんにちは。本日はお越しいただきありがとうございます。東京国際映画祭という場で、この作品を上映できるということを非常にうれしく思っております。皆さんからの質問を非常に楽しみにしています。
ジョアン・ルイ・ゲーラ・デ・マタさん(以下、ジョアンさん):こんにちは。私は日本に来るのは4度目なのですが、監督と同じように、日本というこの美しい国にまた戻ってくることができたことをとても嬉しく思っております。またこんなにたくさんの方に映画を観に来ていただいたことを非常にありがたく思っております。そして皆さんから面白い質問をいただけることを楽しみにしております。そしてそれにちゃんと答えられるように頑張ります。
司会:まずは聖アントニオという人物について伺いたいと思います。この映画ではフェルナンドとして登場する主人公が聖アントニオへ変化していくわけですが、実在した聖アントニオも、フェルナンドから聖アントニオへと名前を変えたのでしょうか。
監督:そうですね、彼は12世紀にポルトガルのリスボンでフェルナンドという名で生まれた男性なのですが、フランシスコ修道会に入ったときにアントニオに変え、13世紀にイタリアのパドヴァで亡くなりました。
司会:ポルトガルの方にとって聖アントニオというのはどれほどの認知度があり、どのような存在なのですか。
監督:アントニオはポルトガルで最も有名な聖人です。またこの作品を作り始めてから分かったことは、彼は世界でも最も有名といっていいほど著名な聖人であるということです。ですが実際にどのような人生を過ごしたのかというのはあまり知られていません。12世紀の話なので確実な証拠のようなものはないのも仕方ないのですが、伝記のようなものは残されています。私はその伝記の中で真実だといわれている出来事を、かなり自由に解釈し、取り入れる形でこの作品を作りました。実のところ、当初この映画は、自然を舞台とした西部劇の中で、人間と自然の関係を描くものにしたいと考えていました。
司会:ジョアン・ルイさんにお伺いしたいのですが、お2人はいつも一緒に映画を作られていると思いますね。今回の映画で一番大変だったことは何でしたか。
ジョアンさん:「どこが一番難しかったか」という質問は、映画作りをしている人間にとって答えるのが難しい問題の一つですね。本作については、特に物語のベースがポルトガル人にとても大事にされている神話であったため、どのような物語にしようか、どのように作品を書いていこうかを検討するフェーズで非常に苦労しました。作品作りのために様々な書物を読みましたし、映画を観ていただいてもわかるように本作はキリスト教の聖像画とも関係しているので、非常に多くの絵画も鑑賞しました。そのように筋書きを書いていく過程の中で、カトリックの教皇によって聖人に任命された人の伝記を作るのではなく、どういうわけか超能力を持ってしまった男の話にしようと思いました。またそのアイディアを、西部劇のように広大な自然を舞台にした、冒険活劇になるようにアレンジをしていきました。聖アントニオになる前の男の半生からインスピレーションを受けつつ、自由に取り入れながら娯楽作品に仕上がるよう努めました。また、この作品の制作プロセスを理解していただくうえで非常に大事なことなのですが、実は監督は10代前半の頃、鳥類学者になりたかったそうです。なのでよく町から抜け出して鳥を観察したり、記録したりしていました。大学では生物学を専攻していたのですが、途中で映画に出会い、映画はバードウオッチングに似ているということに気づいたそうです。この映画は、フェルナンドが聖アントニオになった話ではあるのですが、その一方で、監督が非常に大切にしているバードウオッチングについての映画でもあるのです。
司会:具体的に、映画とバードウオッチングが似ているのはどのようなところですか。
監督:まず、バードウオッチングをするときに双眼鏡を使いますよね。映画を作るときにもカメラを覗きます。双眼鏡を覗いているときには目の前にある鳥の一つを選んでそこにフォーカスします。カメラの場合も何をフレームの中に入れ、何を取り除くかを決めますよね。これが基本的な共通点だと思います。また、私は小さいとき、鳥を観察しながら、彼らの生活を想像していました。もちろん野生の鳥なのでどこかへ飛んで行ってしまうのですが、飛んで行ってしまった後に何が起こっているのかを想像していました。またバードウオッチングの中で鳥が住み着いている巣を見つけると、鳥と自分の世界は全く違うのですが、仲間意識のようなものも感じたりしていました。自分と鳥が交流できているような感じがしていたんです。私が鳥を見るのと同時に、鳥も私を見ているというような気がしていました。この映画の中でも扱っていますが、私たちが自然を見ているのと同じように、自然も私たちをよく見ている。その関係が神秘的だと思いました。
Q:監督の今までの作品はどちらかというと、「登場人物の欲望」や「個人の死」など、非常に個人的な物語をテーマとして扱っていたと思います。しかしこの作品ではキリスト教世界でとても知られている聖人という、ある意味スケールの大きなものを扱っています。映画の中で扱う対象の変化には何か理由があったのでしょうか。
監督:私自身では、今までの映画もこの映画も大差はないと考えています。確かに以前の映画は、私自身が出演していることもあり、個人的な作品のように見えたかもしれません。しかし、私が映画の中でいつも探しているのは「現実を超越するもの」だと思っています。そしてそれは、もしかすると誰もが求めているものかもしれないと考えています。つまり、それは最終的に、生きる意味の模索につながるものだとも思っています。表面的には異なった作品に見えるかもしれませんが、実際はそんなに違っていないと思います。
Q:「言葉」について伺いたいです。私は字幕で把握していたので、すべての台詞を日本語で観ていましたが、聞こえてくる言語はいろいろありました。公式サイトを通じて英語、中国語、ポルトガル語などが使われているのは分かっていましたが、イタリア語とラテン語の違いが個人的に分からなかったので、どのような区分けになっていたのか、お伺いできればと思います。
監督:まず言葉に関してですが、あれはイタリア語ではなくミランディーズという非常に古い言葉で、ポルトガル北部で話されているものです。ポルトガルではポルトガル語と、このミランディーズという言葉が話されているのです。ミランディーズは、様々な言語が融合して誕生した言語なのですが、歴史は非常に古くキリスト教の導入以前から話されていました。実は20世紀にポルトガルを統治していたファシスト政権によって、この言葉は使用を禁止されたのですが、小さな村などでごく少数の老人が使用し続けたため、消滅を免れました。今は学校で教えられていますが、日常的に使う人は非常に少ないのが現実です。
続いて作品に関する説明です。聖アントニオはすべての言葉を理解したと言われています。この奇跡的な能力は、彼が聖人となりえた理由の一つだとされています。国々を渡り歩き、どの国の言葉も理解しました。そういうわけで、この映画では様々な言語が登場します。主人公は、最初のころは少女が話す中国語が分かりませんが、最終的にはラテン語さえも理解するようになります。付け加えると、聖アントニオはヨーロッパの人ですが、彼の人生を詳細に理解する必要はないのです。というのも、日本を含め、アジアの聖人や修行僧の生活も、冒険に満ちています。どの国の聖人や修行僧も、聖地を巡り修行して、神を理解しようとするという一連の行為は共通しています。信仰対象は違いますが、神に近づきたい、理解したいという気持ちは同じです。私たち製作者としては、聖アントニオの人生の事細かな事実よりは、彼が人生の意味を理解するために、超越的なものを探し求めた冒険そのものに注目してほしいと考えています。
ジョアンさん:付け加えますと、私たちは今非常に物質的な世界に生きていると思います。いろんなことが意味をなさなかったり、通じ合わなかったりします。ですが、静寂に耳を傾け、神秘を理解しようとするようなアイディアは、非常に美しいことだと思いますし、そう感じるということは、まだ私たちにも母なる自然や、美しい地球の胸に抱かれるチャンスが残っているということだと思います。
Q:タイトルだけで見に来たので、まさかこんなに自由な映画だと思っていなくて、面食らいました。普段からこんなに自由な作品を作られているのですか?
監督:映画作りにはいろいろなルールのようなものがありますが、私はそうしたルールに従わない努力をすることを大事にしています。それはあまりに多くの映画が、非常に賢くできあがっているというか、綺麗にまとまり過ぎていると思っているからです。優秀な生徒が作ったように見える作品が好きではありません。私は不完全さが好きで、疑問を残し、すべてを説明しきらない映画が好きです。
Q:最初に出てくる中国人カップルや、フェルナンドが非常に同性愛に寛容的だと感じたのですが、物語の中で必要性があってそうした展開になっているのか、別の意図があって敢えてそうした設定にしているのか、お伺いできればと思います。
監督:登場人物の性的指向についてですが、私はたいして重要なことだとは考えていません。重要なのは、同性愛などの性的指向について審判したり、良し悪しを判断したりしない姿勢だと考えています。
ジョアンさん:私からも1つ付け加えさせていただきます。このQ&Aセッションは私たちにとって2度目なのですが、同性愛に関する質問を受けるのも2度目です。日本ではこの同性愛に関する点が問題になるのかと、非常に興味深く感じています。もちろん、西洋社会でも同性愛が問題として掲げられているのは確かなのですが、日本の昔の絵を見てもわかる通り、愛というのは単に一人の男と女の関係以上のものだと思っています。みんなが愛し合うべきだと思っていますし、セックスというのは愛の表現の1つに過ぎないのです。質問は非常にありがたく感じていますが、私たちはどんな人とでも好きな人と、自由に愛し合うことを肯定したいと考えていますので、同性愛自体を議論の対象にすることは控えたいと思っています。