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2016.11.08 [イベントレポート]
「一見して楽園のようなコミュニティでも、危機的な状況に直面するとモラルが消えてしまうのです」ユースTIFF ティーンズ『フロッキング』-11/03(火):Q&A

イェジ・モシュコヴィッチ

©2016 TIFF

 
11/3(木)、ユース部門『フロッキング』の上映後、イェジ・モシュコヴィッチ(アレ・キノ映画祭ディレクター)さんをお迎えし、Q&A が行われました。⇒作品詳細
 
司会:この作品を昨年の12月にポーランドのアレ・キノ映画祭で中・高生と一緒に観ました。観終わった後、身体が凍り付いて話すことが出来なくて、今後この作品について何を話せばいいのかと思いました。
 
イェジ・モシュコヴィッチさん(以下、イェジさん):このように映画と私が招待されて、とても光栄です。ポーランドのアレ・キノ映画祭はヨーロッパで2番目に長い歴史を持つ青少年映画祭で、50年上映をしています。最初は子供向け映画祭だったのですが、15年くらい前に、子供が成長していくにつれ年齢にあった映画を見せたいということで青少年部門を新しく作り、そういう映画祭になっていきました。
子供でも大人でもない中間的な年齢層に、文化的な心のガイダンス、ケアが必要だということで、映画でそれができないかと試みるようになりました。
上映後にディスカッションをしたり、また学校として団体で来ていただいて、教室に戻って先生と一緒にディスカッションをするといったことが行われています。
私がポーランドの10代の学生たちに、「これはスウェーデンが舞台ですが、ポーランドから見て遠い話でしょうか?」「あなたの家の周りでも起きると思いますか?」と聞くと、彼らは「ちょっと遠い話でこんなことは起きない」と最初は思ったりします。私は次に、「もしあなたが役の一人だったらどう思いますか?主人公の女の子でなければ、例えば周りの人であったらどうでしょうか?」と尋ねます。本作はレイプという性被害を扱っているだけではなく、社会がなぜこういう状況なのか、なぜ問題を隠すのか、アレックスの母親や牧師はどうしてあのような行動をとるのか、それぞれの登場人物の誰かに自分を当てはめてみることで、一見みんなで仲良く住んでいる楽園のようなコミュニティの実態が見えてくるのです。キリスト教に基づいて、みんなで小さなユニットを形成しているけれど、何か危機的な状況に直面するとモラルが消えてしまう。ポーランドもそういう傾向がありますが、あえて申し上げるなら日本もまだ男女同権には至っていない、男尊女卑なところがあるのかもしれません。そういった方面から映画をとらえていきたいと考えています。
 
Q:善意で出来ているソサエティ、コミュニティが善意のままに暴走していく、そういうシステムが描かれていたと思います。途中でSNSの画面が出てきましたが、SNSがあることによって社会の善意の絡まりが悪意になってしまうのか、あるいは社会そのものが、コミュニティを守るため、正常にしようとするがために、はぐれ者をいじめたり、誰かを責めるという状況を生み出すのか。どのように感じていますか?
 
イェジさん:この作品にはSNSも出てくるのですが、まず社会の仕組みということを扱っています。ストーリーラインをたどると、このコミュニティはSNSに触れる前から、20世紀もずっと同じようにしてきたのだと思います。イングマール・ベルイマンの作品を見てもこういった感じの描写があるかもしれません。コミュニティの在り方を問いかけています。
SNSということでは、最近私の映画祭で上映したデンマークの作品を思い出しました。実際にレイプがあったわけではないのですが、高校生が女の子をまるでレイプしたかのように装って撮った写真をネットにアップしたことで、その24時間後に女の子が自殺したという事件を描いています。レイプ自体は起きていないけれど、例えば彼女が恵まれた家庭で育ち、特に問題もなかったけれど、強いて言うなら親が子供に充分時間を割いていなかったというようなことを始めとした、彼女の周囲の状況だとか、レイプの有無を問うのではなく、またSNSの使い方を問うということでもなく、狭い社会とその規範の在り方、人々の在り方が問われているのです。
私は10代のために作品を選考する際、希望を与える作品かどうかを重要なポイントとしています。皆さんの中で、主人公のイェニフェルにこの後希望があると感じた方はいらっしゃいますか?そしてそれは何故か、お話できる方はいらっしゃいますか?
 
観客:僕はこの作品にはもっと人間的な、根元的なテーマがある気がしました。コミュニケーションにしても、社会、他者、親子、信仰、色んな関係性の限界が突きつけられているように思います。人間の限界を定義することによって、より神の不在が強調されているというか。彼女が自殺を思いとどまる時に目の前に鉄の十字架があったり、神の不在を問い続けながらも結局はそのことに執着している。キリスト教にしろ、仏教にしろ、まず「汝殺すなかれ、汝犯すなかれ」その両方があります。今でいう命を大切にしようとか、人に思いやりを持とうとか、そういうオブラートに包んだような言い方ではなく、人間は人間を殺せるのだから、そのことを自覚して殺すなかれと言っているし、人は人を犯すものだからそのことを自覚したうえで犯してはいけないという、直接的な限界を知らせることによって、どのように人や社会と付き合えばいいのかを示し、目覚めさせようとしている。そういう意味で彼女は最後、散弾銃を口から離してあきらめたように見えつつも、限界を知った上でこれから先自分はどうやって生きていくかというのを自覚する、そういうラストシーンだったのではないかと思いました。
 
監督:ありがとうございます。イェニフェルは最後に自分の命を絶たないと決断しますが、彼女には非常に勇気があります。最初に告発をして、そのことによって非常に困難な状況に立ち向かうことになりますし、これからの人生を構築していくにはさらに勇気が必要です。少年アレックスについて、逆に彼が罰を受けずに放置されてしまうと、犯罪は繰り返され、被害も繰り返されてしまいます。「彼はやったかも知れない、だけど…」、その「だけど」はないということです。彼が犯した罪は非常に大きなことです。
また、この映画でもう1つ伝えたいことは、誰しも心は脆いものなので、ケアとサポートがいるということです。アレックスの母親が息子とイェニフェルを一緒にして、握手して仲直りしなさいと言ったところはそんな簡単なものではありません。あれはまさに、コミュニケーション・関係性が人と人との間で上手くいっていないということを象徴するシーンでした。先ほど、この作品に希望があるかという問いに対して手が多く上がったことを嬉しく思います。ポーランドではあまり手が上がらなかったのです。
 
司会:最後に一言お願いします。
 
監督:実は前回の上映の後に、ある女性が涙目で私に声をかけてくださったんです。皆さんの前で言うのは勇気が必要だったけど、この映画を観て思ったのがイェニフェルは本当に一人で戦っている、独りぼっちだということだと。私は「この映画を観ている私たちは、彼女側で彼女をサポートしているので、そういった意味では彼女は1人ではありません。」とその方に伝えました。ですから皆さん覚えておいてください、もしこういったことが皆さんの生活で実際にあった場合、助けが必要な人の立場に立てるように思いやりをもって接してほしい。それがこの映画が私たちに伝えていること、学べることだと思います。
本日はご鑑賞いただき、またコメントや質問をしていただきありがとうございました。私の映画祭はポーランドのポズナンで11月27日から開催されます。是非いらしてください。

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